ダイスを転がせ

shizyukara2007-02-16

その昔、易にハマった事がある。易とはあの長い棒をザラザラとひねり回して占うというアレであるが、フリップ・K・ディックの「高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)」と言う小説に、重要な小道具として出てきたので興味を持ったのだ。


そこで岩波の「易経」と、ホームセンターで売っている竹ひごを買ってきて、色々とヨシナシ事を占ってみた。のだが、当たっている様に思える事もあれば、全然当たらないこともある。どうも竹ひごをひねくり回したくらいでは未来はなかなか見えてこない様だ。


ちょっとガッカリしたのだが、よくよく考えると当たり前である。もし仮に全てが当たってしまっては、それはもはや占いではなく、ただのチョー能力ではないか。というかもし万が一未来が決定論的に全て決まってしまっているのなら、推理小説の結末を初めに見てしまう様なもので、面白くも何ともない。


となると、占いは外れるからこそ面白いという事になる。変な話だがそう言う事にならないだろうか。負けないギャンブルがギャンブルではなく、絶対に当たる宝くじが宝くじではないのと同様、占いはハズれる事によって初めて占いとなるのである。